「多分絶対」
どっちやねん!と目くじらをたてることも少なくなった。その物事が起こる可能性が50%程度であろう多分と、100%起こる絶対とが交じり合うことは意味的にはありえないのだけれども、脳内ではこの「多分絶対」はしばしば起こる。
インスタなんかでキルフェボンのストロベリータルトを見ながらこう言うのである。
「見てみてー。これ多分絶対おいしいよね!」
キルフェボンのタルトで、ストロベリーだなんて絶対においしいのである。でもそれを食べたことはないから確証はない。ならばこうだといかがだろう。
「多分おいしい」
これではおいしい可能性が50%程度なので、キルフェボンのストロベリータルトを見た時のニュアンスとは大きく異なる。だめだ。
キルフェボンである。多分おいしいでは、それを表現することはできないのである。おいしいことはもう100%確実なのである。しかしながら、それを自身の世界で確定させることができない。そういう時に沸き上がる言語化。それが、多分絶対。
言葉としておかしい!
そんな頑固な主張は、単にあげ足をとってマウンティング的な何かで気持ちよくなりたいだけの主張だわって。文字面重視からニュアンス尊重型に鞍替えしたのは、おそらくあまりに多分絶対が世の中にはびこっているからだろうと思う。いや絶対。
こんなん日本語だけちゃうのん?
なんて思ってたら、Oasisのアルバムでこんなタイトルがあった。
英語はYES/NOが明確で日本語みたいに曖昧じゃないなんて言う人は大抵にわかである。