快楽と自慢と/快楽は自慢など必要としないから快楽なのだ

快楽は自慢など必要としないから快楽なのだ

ということを書こうとしてググったら、村上龍の言葉だった。「すべての男は消耗品である」からの一節なはず。危うく自分で思いついた言葉として記してしまうところだった。

高校時代、斜に構えたというか、見識の浅い若者同士の会話ではなかなか見聞きしない視点を与えてくれたエッセイやら小説やらに、いとも易々と心酔していた。

村上龍、村上春樹、山田詠美。特別な自分だからこそ巡り合えたという勘違い。自分だけが知っている、あなたはきっと知らないであろうという優越感を得るには、読書はとても丁度よかった。

誰でも知っていて、自分だけが知らなかったにもかかわらず、見当違いに読む者と読まぬ者とを線引きして。きっと多くの同類が、たいして優れてもいないはずなのに、この実質的な比較対象者のいない虚の優越というものを感じていたと思う。
平和である。
中途半端な読書家によるこの傾向はまずい。大抵の振る舞いが何か鼻にかかる、いけ好かないとされるタイプのそれなので。いわば能力のない蛙が井の中で努力はじめると勘違いが生まれるということだ。

ただ、それは別に悪いことではない。若者ならでは、成長ってのはそういうものである。そしてそれは量産され、時を経れば凡庸によってならされる。言わずもがな自分もそういう凡庸の一人であった。

その後の成長過程で、凡庸さを受け入れられるか、受け入れられずに痛いままかによってその害悪感は多少異なる。

で、快楽の話。

自身が対して特別でもないのに特別であると誤認してしまうと、自身の振る舞いを他人に確認せねば快楽を得られないという不幸を招いてしまう。

どこどこに行った、なになにを貰った、なになにを行った。
これらはすべて、それそのものが快楽であるはずなのに、誰かへの自慢によってそれを承認されることによってしか快楽を得られない状態がその不幸である。

SNSと承認欲求を切り口としたエピソードなんてここ10年くらい嫌というほど耳にするけれど、根本的な改善方法はそのバランスにしかない。快楽は快楽で得る術を持つべきだし、承認欲求を全く必要としないのなら、そもそもそれを問題視するような人生を歩んでいないだろうから。

凡庸さを受け入れて承認欲求を満たして代替するか、凡庸さを受け入れられず勘違いによる快楽を得続けているか。

noteみたいなことしているとその狭間でゆらゆらしている感じで、妙な自制心を働かせることになる。

何とか凡庸ながら少なからずの大切にしたい美学を保とうとするがために。