自分のグループが盛り上がっていない時の「恥ずかしさ」

幼稚園、小学校、中学校、高校と。

グループやらチームに分かれて何かを行うシーンって頻繁にあります。工作やら、遠足やら、文化祭・学芸会やら、日々の遊びやら。

もちろん、一人が好きで一人でいる人もいれば、友達と混ざるのが苦手もしくは混ざり方がわからずに一人でいることが多かった人もいるでしょう。とはいえ、数人のグループ、チームに分かれた行動ってイメージはできると思います。

隣のグループは盛り上がっているのに自分のグループは盛り上がっていない

そういうシーンって記憶にありますかね。

「グループに分かれてディスカッションしてくださいーい」

なんてことがあったとして、隣のグループは活発に意見を交わしあって、楽しそうに笑い声なんかも聞こえてきて。

反面、自分のグループは、ぼそ、ぼそっ…シーン……というか、チーンというか。とても寂しい時。

これ、自身の原体験として強烈に刻み込まれていてですね。たぶん幼稚園だったか、小学校低学年だったかだと思うんですけど、自分のグループが全然盛り上がっていない時に、猛烈に恥ずかしい気持ちになっていたんですよ。

盛り上がっているグループから見た、自分たちのグループってダサいかもしれない。そのダサいチームにいる自分も馬鹿にされているような気がする。

そういう気持ちです。

よく見聞きする「他者からどう見られるかなんてどうでもいいじゃん」ってのは一つの考え方ではあるんでしょうけれど、社会生活を営む上で、他者からの評価が大切なのは言うまでもなく。基本的に孤独な人間に陽気な人間は寄り付きませんからね。残酷にも。そんな救世主はたいてい漫画やドラマにしか存在しません。稀有にそういう存在と知り合えた人はとても幸運です。

幼心だからこそ、それに敏感だったのだと思います。

運よく元気な人間とグループになれればいいでしょうけれど、そうでないときもしばしばで。そういう時に発動したこの原体験。

他者から馬鹿にされたくない、しょうもないグループやと思われたくない

自分で何とかするしかないんですよね。

この羞恥から逃れるには。

なんとか自分から発言したり、他の人に話を振ってみたり。大げさにリアクションしたり、笑ってみたり。

試行錯誤、失敗もおおかったけれど、努力の甲斐あって自分のグループが楽しいケースが増えたし、何より、周りの目が気にならないようになってきたんですよね。数十年かかりましたけども。

この周りの目が気にならないようになったってのがとても良い経験でして、その理由が三つ。

・1 何とか自分で楽しい空気感を作れるという自信が身についた
・2 まぁそういうこと(盛り上がらないこと)もあるよねという寛容さが身についた
・3 周りより自分の目の前のメンバーにフォーカスする習慣が身についた

3つ目が特に大きな成長ですよね、今思えば。

大体が「他者から馬鹿にされたくない、しょうもないグループやと思われたくない」なんて気持ちって、自分の目の前にフォーカスせずに周りにばかりフォーカスして、結局行き着く先が自分自身がどう思われるかってエゴイスティックな感情なもんで、そりゃうまくいきっこないんですよ。

他者から馬鹿にされないような人、転ずると他者から尊重される人ってのは、順序として逆なんですね。

自分を見つめて、自分は他者に何ができるかを考えて、その行動によって他者がどう感じてくれるか。

原体験によってそういう風に思えるようになったと。

「他人からどう思われたっていいじゃん」って感覚は一理ありますけども、それはやりたいことが明確な時にこそ当てはまります。また別のシーンで、他人からどう見られているか過敏であることから得られるものもあるので、少しね、視野を広げてみるのもいいかもなって思うのです。子ども時代に限らず、大人となった今できる一つの振り返りとして。