「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
中学生の時に「百人一首を暗記せよ」というタイミングがあって,必死こいて覚えた一つ。確か3つ覚えなさいって話だったと思う。リストは,あいうえお順で並んでいて一番最初が「秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ」。二つ目が「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」。当時覚えたもう一つは「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。これは今確認すると十三番目。一番目から見て行って,二番目まではそのまま覚えて,次は覚えやすそうなやつーって下っていくと,これが覚えやすそうで選んだような気がする。意味もわからず安倍仲麿。
当時は百人一首なんてなんで覚えなきゃならんのだって億劫だった。こどもの頃の暗記モノって,誰しも少なからずそういう思いを抱くんじゃないかな。でもね,当時この十三番目を覚えたことで,それから月を見ればちょこちょこ「ふりさけ見るよなー」なんてそれを思い出し,ふとある夜に見上げた月には故郷が思い出されて,見上げた月も故郷も日本なのに遣唐使ぶったりもしましたし。
若かりし頃の学習ってそういうことなんですよね。
学んだことそのものによる成長は勿論,学んだ後に知識と共に生きて,都度都度の出来事と感性に深みを与えてくれる。学生時代の先生の肝は,情報の提供にあるんではなく,そういう趣きの萌芽にほんの少しでも水を与えることにあると思っている。
A「うちの家寒くてさー,朝起きたら衣手濡れとったわ」
B「だいぶ苫をあらんどんなー」
こういうやり取りが好きである。
天智天皇。偏差値55から60くらいの掛け合い。
結果ロクなもんは咲いていないけど,きれいだと愛でられるのが救い。
秋の田圃のほとりにある仮小屋の、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れていくばかりだ。
引用:https://ogurasansou.jp.net/columns/hyakunin/2017/10/18/17/