「わび・さび」の捉え方

何でもかんでも言語化が正義だとは思わない。けれど,好きな性分なんだろうなとはたまに思う。言語化が。
「わび・さび」なんて殊の外言語化の埒外においといても良さそうな言葉だけれど,漠然と,慈照寺やら枯山水を思い起こすより,半歩くらい先を見た方が,よりそれを好きになれそうで。辞書的な意味は調べればいい。シンプルに自分の中で捉えるに簡易な何かを用意しておきたい。それくらいの半歩である。

わびとは,足りなさから生まれる美しさ
さびとは,時間の経過と共に生じる美しさ

根本はそこにあって,その尺度で物事に触れて行くと,自然と質素さや,朽ちていく様に焦点が当たる。
あるがままと,時の流れに沿ってコツコツと生きる空気感。
それがあるがままであるならば,そこに豪華さがあっても別に良いと思う。
それに追い縋ったり,依存して求めたのでなければ。何かを避けるというものでもないはずなので。

足るを知っているから足らない良さがわかるんで,金ぴかに心奪われることを知っているから錆の良さがわかるんで。物事の尺度はその逆の態に触れたことがあるからこそ,うまく咀嚼できるんだろうと思う。

何も知らないところで足りなさという侘びは生じないし,生まれたばかりに比べれば人はみな少なからず寂びている。

あとはそれを生きるか程度どれ程よく観察できたか。
シンプルさの尺度には,ごてごてで,静かな修業がいるように思っている。